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この インタヴュー・シリーズにご登場いただいた、ミュージシャンの皆さんに共通するキーワードを一つ挙げるとするなら「文化的早熟」だろうか。その中でも、小学5年生でドラムを叩き始め、高校2年生でスタジオ・ミュージシャンとしてデビューした高橋幸宏さんの早熟さは際立つ。


幸宏さんが早熟だったのは、音楽に対してだけではない。フランス映画『個人教授』のルノー・ヴェルレーよろしく、MR. VANの白いシャツ、マドモワゼル・ノンノンのコーデュロイのパンツでリトルホンダに乗り、高校に通っていた——というエピソードが示すように、映画からの影響をライフスタイルに取り入れるのも早かった。


音楽、映画、ファッションを軽やかに結びつけるセンスを、ティーンエイジャーの頃から持っていたミュージシャン。そんな人物はサディスティック・ミカ・バンド時代からの盟友、加藤和彦さん亡き後、日本では高橋幸宏さんしかいない。

 

傷心旅行のお土産で意識したアメリカ

——幸宏さんには音楽遍歴を記された著書『心に訊く音楽、心に利く音楽』(PHP研究所)がありますが、それによると、最初に自分のお小遣いで買ったレコードがヘイリー・ミルズだったそうで……。


高橋 はい。後にリメイクもされた『罠にかかったパパとママ』(1961年)という映画があったんですが、双子の女の子が離婚しそうなお父さんとお母さんを、なんとかつなぎとめるために試行錯誤する話なんです。それで最後に主人公のヘイリー・ミルズが「Let's Get Together」という曲を歌うんです。それがかわいくてね。小学校4、5年生だった僕は憧れて、レコードも買いにいったんです。この間、ラジオでこの話をした時、曲も用意してくれていて聴きましたが、すごい音痴でした、彼女(笑)。まあ、女優さんだから、しかたないでしょう。当時は子役でしたが、今でも現役でやっている、アカデミー賞女優ですよ。


——そこから聴くレコードの幅も広がっていくわけですよね。


高橋

長男がアメリカで大量のレコードを買ってきて、一気に広がりましたね。 10歳年上の長男が慶應大学を卒業して、傷心旅行みたいな感じでアメリカに行ったんです。


——60年代の初めの話ですよね。卒業傷心旅行でアメリカに行けるものなのでしょうか(笑)。


高橋

ビザだって簡単に取れない時代ですよ。そんな時代に恋に破れたからアメリカに行くなんて、確かにちょっとあり得ない(笑)。アメリカのどの街へ行ったのか、もう憶えていないんですけれど、その街の新聞に載ったそうです、「日本人が来た」って(笑)。


大量といっても飛行機に積める重量制限もあるから、10枚くらいだったのかな。メジャーではないレコードばかりでした。長男は音楽に全く詳しくなかったので、サーフィン・ミュージックのバンドの中でもB級のものを買ってきちゃったんです。長男と同じく慶應に行って、フィンガーズというバンドをやっていた次男(高橋信之)と、僕へのお土産として。インストのエレキ・サウンドでしたから、やっぱり(フィンガーズで同じエレキ・サウンドをやっていた)信之へのプレゼントのつもりだったんでしょう。今思えばどのレコードの演奏もうまくはなかったと思いますが、小学生の僕はこれを聴いて、「アメリカってカッコいいなあ」と思ったんです。


——レコードのジャケットは、どんなものだったのでしょうか。


高橋

なぜかフランケンシュタインが写っていたり、ホットロッドの車だったり……これがビーチ・ボーイズだったら、本人達の写真になるんでしょうけれど、無名のバンドなんでよく分からないジャケットになったんでしょうね。日本の子供達がボタンダウンのワイシャツを着ているアメリカの父親に憧れた時代の雰囲気はありましたね。


映画とバンドの「IVYルック」

——日本でも放送されていたアメリカのホームドラマを観て、当時の子供達は憧れたわけですよね。


高橋

ホームドラマで一般的なアメリカのファッションを知ったんですよ。映画でいえばロック・ハドソンの『男性の好きなスポーツ』(64年)。彼がクルーネックのシャツやVネックのカシミアのセーターを着ているんですが、そういう普通のファッションをした男性に憧れたというか。色男といっても当時の僕から見るとおじさんなのに、普通の大人の感じがカッコいいんです。釣りがテーマの映画なんですけどね。ロック・ハドソンが全然釣りができるように見えない(笑)。ギャグも結構面白いんです。


——幸宏さんの場合、音楽でも映画でも、やはりファッションも意識しながら好きになっていたんですね。


高橋

当時、憧れていたヴォーカル・バンド、ヴァンガーズ(ミッキー・カーチスが結成。66年、ミッキー・カーチスとザ・サムライズと改名してデビュー)がフィンガーズと共演したのはよく憶えています。信之がやっていたサークル、慶應風林火山のイベント(66年に渋谷公会堂に行われた「灯のない街のコンサート」)に行ったら、ヴァンガーズが出ていた。ファッションとすごく密接な関係があったバンドです。



高橋

当時、憧れていたヴォーカル・バンド、ヴァンガーズ(ミッキー・カーチスが結成。66年、ミッキー・カーチスとザ・サムライズと改名してデビュー)がフィンガーズと共演したのはよく憶えています。信之がやっていたサークル、慶應風林火山のイベント(66年に渋谷公会堂に行われた「灯のない街のコンサート」)に行ったら、ヴァンガーズが出ていた。ファッションとすごく密接な関係があったバンドです。


——VANヂャケット提供のテレビ番組から生まれたバンドだったそうですね。


高橋

今、ヴァンガーズがステージでやっていた曲を急に思い出した……なんで「ボラーレ」(高橋幸宏が『サラヴァ!』でカヴァーしたイタリアのカンツォーネの曲。オリジナルは59年リリースのドメニコ・モドゥーニョ。日本では89年のジプシー・キングスのカヴァーが有名)なんてやったんだろう。ミッキーさんはコーラスも担当していましたね。あとは「アルベデルチ・ローマ」(レナート・ラシェル作曲のカンツォーネ。日本でもザ・ピーナッツなどがカヴァー)とか、フォーシーズンの曲とか。アメリカ音楽だけじゃなかったんですよ。なんか全部心の琴線に触れましたね 。


——流行の移り変わりでいえば、短髪にVANのボタンダウン、アイビー・ファッションだった人が、徐々に長髪のサイケデリックに変わっていくわけですよね。特にバンドをやっていた若者達は。


高橋

僕が高校生の頃、風林火山主催のダンス・パーティ(キャンドルライト・パーティ)で大学生だった細野(晴臣)さんに初めて会った時、長髪だったんです。ヒゲもあって。いや、まだなかったかな? それでホワイトジーンズをはいていた。くるぶしくらいまでの。でも、ソックスはアイビーの感じだったんですよ。それを指摘したら、すごく嫌がられた記憶がある(笑)。「生意気な高校生だな」と。



つかの間の長髪をミカ・バンドで刈り上げ

——幸宏さんはどういう格好をしていたのでしょう。


高橋

僕もホワイトジーンズとかをはいていたんじゃないですかね。当時、カッコよかったのは、Leeのピケのホワイトジーンズ。上野のアメ横で探して買いました。


僕も中学2年くらいからアイビーでしたね。それ以降、高校1年にかけて、日本のメンズ・ファッションの王道はずっとVANだったんです。みゆき族(VANの服に身を包み、銀座のみゆき通りに集まる若者達)なんて言葉もありましたし。兄貴達の世代が一番影響を受けていると思います。兄貴の友達はみんなVANの袋を持っていましたね。袋にアイロンをかけていた時代ですから(笑)。その後、JUNも知られるようになって、JAZZとかエドワードも続き、そんな中でMR.VANが登場したんです。MR.VANはヨーロピアンな感じで、当時はコンチ(コンチネンタル)と呼ばれていましたね。僕がハマったのは高校2年くらいかな。


それからビートルズの影響で、サイケデリックになっていきましたね。オーダーでマオルック(スタンドカラーのジャケットなど)をつくったりして。『マジカル・ミステリー・ツアー』(67年)でポール(・マッカートニー)が着ていたような編み込みのベストを母親に編んでもらったり。あれは全部アンティークというか、古着なんですよね。


——幸宏さんには、あまりサイケな格好をしているイメージはありませんよね。昔の写真を拝見しても。


高橋

ペーズリーのシャツとか、着ていた時期はあります。写真では残ってないですけどね。


——幸宏さんが通っていらした立教高校は制服だったのですか。


高橋

制服です。小学校から制服で、中学が学ランで、高校も同じでした。だけど夏服になるとグレーのジーンズをはいて学校に行っていましたね(笑)。白のシャツにグレーのパンツと決まっていたんですが。朝のチャペルの授業(立教はクリスチャン向けの教育機関)が嫌だったんですよね。なんでチャペルが嫌かというと、教師が一番後ろで見ていて、襟足の長さをチェックするんですよ。それで長いと怒られる(笑)。だからできるだけ遅れてチャペルに入っていって、遅刻してソーッと横のほうに立っているようにしていました。もう、教師と追っかけっこですよ。大らかな時代でしたね。


——60年代、70年代の終わりまではロック・ミュージシャンは長髪が当たり前で、パンク、ニュー・ウェイヴの登場で髪を切った方も多かったですよね。幸宏さんのヘアスタイルの変遷は、どうだったのでしょうか。


高橋

19か20歳くらいの時、ミカ・バンドに参加する前にロンドンに行っていた頃、長髪にしていました。すぐに切っちゃいましたけれど。ミカ・バンドの時は刈り上げていましたから。「殿下」というあだ名で呼ばれていて(笑)。それはロンドンでよく見かけたおじさんの影響なんですよ。今思うと20代だと思うんですが、丸メガネをかけていて、いつもアンティークな服を着ていた人がすごくカッコよくて。その人が刈り上げていたから、トノバンと2人で「刈り上げよう」と(笑)。ロンドンの最先端のファッションに影響されて二人とも切っちゃいました。トノバンはグリーンとかオレンジの長髪でしたが、いきなりバッサリ切って普通になっちゃいましたね。


ロックとモードが結びついた一瞬の輝き

——ファッションとの接点で好きになった映画はありましたか。


高橋

『男と女』(66年)は映画としても別格ですが、ジャン=ルイ・トランティニャンのファッションにも影響を受けました。改めてデジタル・リマスタリングで観てみると、やっぱりファッションもいいんですよ、なかなか。特にムートンがすごく印象的で。寒い時期の設定だから、トランティニャンもアヌーク・エーメもムートンのコートを着ているんですよね。トランティニャンはそれを脱ぐと、下はいつもカシミアのセーターにポロシャツみたいな、そういう感じ。フレンチ・アイビー、フレンチ・トラッドといったほうがいいかな。


次に好きになったのが『個人教授』。最初は音楽が同じフランシス・レイだったから観たんですが、ルノー・ヴェルレーにハマっちゃって。ああいうコーデュロイのパンツに白いポロシャツ……いや、ポロシャツともいえないんです、あれは。アメリカとかイギリスの、フレッドペリーみたいなポロシャツの形じゃないんですよね。それが欲しくて色々と探してみたら、MR.VANが近かった。近い半袖のシャツがあったんです。パンツは圧倒的にマドモアゼル・ノンノン。何十本も買いましたね。股上が浅いのが気になったんですが、当時はそれが流行っていたので我慢してはいていました。


——当時のマドモアゼル・ノンノンは、どういうラインアップだったんですか。


高橋

1店舗でユニセックスのパンツとシャツを展開していて、それぞれ形が全部一緒だったんです。色は豊富で、素材はコーデュロイが中心だったと思います。当時の最先端ではありました。デザイナーは荒牧(太郎)さんという方で、パパスも始めたら、そっちのほうが大きなブランドになっちゃいましたね。


——幸宏さんは純粋に洋服が好きだったということもあると思いますけど、常に映画なり音楽なりとファッションが結びついていたのは、時代背景の影響もあるのでしょうか。


高橋

ファッションと音楽はよく並べて語られますけれど、強烈に結びついていたのは、70年代のグラム・ロックの頃までじゃないですかね。その後におしゃれなミュージシャンって、あまり見たことないんですよ。チャーリー・ワッツとかポール・ウェラーは、年を重ねてカッコよくなった感じですよね。ブライアン・フェリーは若い頃からおしゃれだったけど、センスが独特なところもあるし。おそらく世界的に見ても、音楽とモードとちゃんと結びつけられた人って、トノバン(加藤和彦)くらいじゃないですかね。


——実は短い間の一瞬の輝きであり、体現できたミュージシャンも少ないと。


高橋

グラム・ロックの頃は、確かにファッションと音楽は結びついていました。マーク・ボランが着ていたジャケットのブランドが、アルカズークやグラニー・テイクス・ア・トリップだと聞いて、僕も同じものを買いにいったりしました。シティライツ・ストゥディオとか、YMOの衣装にも影響を与えたものもあります。トミー・ロバーツがミスター・フリーダムの次に立ち上げた最後のブランドなんですが、一般的には知られてなかったですね。


スーツを着こなすミュージシャン

——後のパンク・ロックやヒップホップもファッションと一体ではありますが、服として純粋におしゃれなものを着ていたかというと、また違いますよね。


高橋

違いますね。いまだにパンク系のバンドの子達が、ロボットに代表されるような厚底のロンドンシューズを履いているのを見ると、ロック・ファッションの王道としてちゃんと残っていて、すごいなとは思いますが、別にモードではないですからね。


——ただ漠然と「おしゃれ」というのではなく、それがモードなのか、ハイ・ファッションなのかと考えると、ずいぶんと話が違ってくるわけですね 。

高橋

イギリス人だったらちゃんと仕立てた背広とかね。ミュージシャンでも、チャーリー・ワッツみたいに普段はスーツを着ていて、ステージに上がるとTシャツ1枚になるみたいな人もいるわけです。また、そのTシャツがかわいいんですよ。オレンジ色で、相当洗い込んであって。2015年のツアーの時に彼が着ていたものを、ロンドンにいる女の子が調べてくれて、同じものをプレゼントしてくれたんです。サンスペルという、下着で有名なブランドのものでした。でも、やっぱりステージ終わると、ちゃんとスーツに着替えるというね(笑)。


僕は若い頃、ハイ・ファッションのブランド物はあまり好きじゃなかった時期もあったんです。最新のモードを追いかけるより、古着を探したりすることのほうが楽しかった。といいながらトノバンと一緒にファッション誌、例えば『ブリティッシュ・ヴォーグ』のページを捲りながら「このサンローランの靴、欲しいよね」なんて話していたんですけれどね(笑)。


——メンバー全員がおしゃれだな、イメージが揃っているなと感じたバンドはいたのでしょうか。


高橋

チャーリー・ワッツは他のメンバーの格好を「あの趣味の悪い服をなんとかしてくれ」といっていたらしいですが、ローリング・ストーンズの60年代のファッションを見ると、そんなに悪くないんですよ。ミック・ジャガーの格好はすごくシンプルでかわいくて、後のジル・サンダーの服みたいでした。だからステージでは変わったセンスの服を着ていたとしても、要所要所ではうまいことスタンダードな感じのファッションも引っ張ってきているんだなと思いますね。そういう意味では、ビートルズはきちんと揃っていましたよね。モードではないけども、4人揃ったスーツの感じが戦略として成り立っていたというか。バンドのユニフォーム姿がカッコよく思えた時代でもありましたし。途中からみんなバラバラの格好をし始めても、普段の服が上品でおしゃれでしたし。


トム・ブラウンも、ショーでは奇抜な服をたくさん出すんですが、結局メインになっているのはいつもグレーのスーツじゃないですか。映画の『断崖』(1941年)をモチーフにしているとインタビューでは答えていますが、僕から見ると『エイプリル・フールズ』(邦題『幸せはパリで』69年)の時のジャック・レモンのスーツに近いんですよね。特に変わったところのない、日常的に着るようなスーツで、ちょっとツンツルテンなんです(笑)。トム・ブラウンには「毎日同じ格好をする勇気」という言葉があって、そういう感じは僕も好きですね。


『サラヴァ!』 を歌い直した理由

——スタンダード、フォーマルといえば、ファースト・ソロ・アルバム『サラヴァ!』のジャケットで、幸宏さんはタキシード姿でした。ロック・ミュージシャンがフォーマルな格好をするのは、それまでブライアン・フェリー以外はあまり例がありませんでした。


高橋

写真を撮ったのは鋤田(正義)さんですが、最初は鋤田さんが「エッフェル塔の前でローラースケート履いて、タキシードで撮ろう」といっていたんです。でも、寒くて断念したんですよ(笑)。


——このアルバムはヴォーカルを新録して、新たに『Saravah Saravah!』のタイトルでリリースされることになりました。


高橋

『サラヴァ!』は、とにかく歌入れをやり直したいとずっと思っていたんです。音程が悪いし、イタリア語の発音も悪いし……アクセントの間違っている箇所があることも自分で分かっていたし。だいたいコーラスに(山下)達郎や(吉田)美奈子が入っているのに、リード・ヴォーカルがこれじゃマズいだろうと(笑)。歌のリズムもノリも含めて全部。まだ自分の歌い方が確立できてない頃の作品だから、今の解釈でちゃんと歌いたかったんですよ。


そんなことを考えていたら、当時のマルチ・トラックがいい状態で残っていることが判明して、僕も驚いたんです。ヴォーカルを録り直してみたら、今の声のほうが若く聴こえるんですよ。当時は大人っぽく歌おうと思って、自分なりに解釈していたつもりなんですけど、分かっていなかったんですね。それととにかく演奏がみんなうまくて、うまくて。当時自分達ができる演奏をすべて出し切っちゃっているくらいじゃないですか。教授(坂本龍一)のアレンジも素晴らしいし。細野さんなんか、チャック・レイニーよりうまいんじゃないかと思います(笑)。

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