アートやファッション、演劇が交差する場所に身を置きながら、日本のロック/R&Bを生み出す試行錯誤を続けた小坂忠の1966-1976。

ザ・フローラルでのデビューからエイプリル・フールの結成、日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』への出演、名盤『ほうろう』『モーニング』のリリース。小坂忠の50年を超えるキャリアのうち「最初の10年」は、日本のロックが欧米の影響下からオリジナルなものへと進化していく軌跡と重なる。デビュー時を語るインタビューと詳細なバイオグラフィー、2部構成で明らかにするアーリーイヤーズ。

音楽との出会い すべてはFENから始まった

小坂

音楽との出会いはラジオです。バンドを始めた頃でも、まだ家にレコード・プレーヤーがなかったくらいですから、音楽を聴くにはラジオしか手段がなかったんです。海外の音楽を聴き、情報を得るのはもっぱらFEN(極東放送網=戦後、日本に駐留した米軍向けのラジオ放送/現AFN=米軍放送網)。ジャンルを問わず、FENから流れてくる曲はなんでも聴いていました。当時は音楽のジャンル以前に、「ラジオ」自体が独立したジャンルみたいなもので、大きな存在でした。あの頃の音楽ファンを皆、同じじゃないかな。ラジオの存在の大きさが分かるのは、FENが流れていた地域、東京以外でも広島や福岡、青森などからは多くのミュージシャンが生まれているんです。やはりそれだけFENを通じて洋楽に出会い、影響を受けた若者がたくさんいたということでしょうね。僕にとってはこの当時FENで聴いた曲はまさに原点であり、今回リリースする『CHU KOSAKA COVERS』でも、そういった曲を選曲してカヴァーしました。

子供の頃から音楽は好きでしたが、自分で歌がうまいとか、歌手になりたいとは考えたことはなかったですね。まあ、多少は大人に褒めてもらったことはありましたけど(笑)。昔は魚屋さんが御用聞きに来たりしたじゃないですか。家にも威勢のいいお姉さんが来ていてね、僕がたまたま歌っていたら「うまいね~、兄ちゃん!」だって(笑)。小学生の時からレイ・チャールズがFENから流れてくると一緒に歌っていました。一生懸命カタカナで英語の歌詞を書き取ったりしていましたね。「アイ・キャン? うーん、なんて歌っているんだろう?」なんて(笑)。

ザ・フローラルの結成 2トラックのレコーディング

小坂

バンドを本格に始めたのは大学に入学してからです。高校時代から、ちょっとPPM(ピーター、ポール&マリー)なんかは歌ったりしていて、メンバーの中心は高校からの友達。練習はそのうちの一人の祐天寺の自宅でやっていたのを憶えています。

僕は最初、ヴォーカルじゃなかったんです。サイド・ギターとサイド・ヴォーカル担当みたいな感じで。ヴォーカルだったのは先輩で、彼の関係で柳田ヒロが加わったんですよ、確か。そのバンドでミュージカラーレコード(日本ミュージカラー)のオーディションを受けたんですが、結局デビューの段階で残ったのは僕とヒロだけだったんです。ヒロの知り合いだったベースの杉山(喜一)、ドラムの義村(康市)が新たに加わって、ギターの菊池(英二)さんはミュージカラーの紹介で入った。それがザ・フローラルですね。

いざ、デビューするとなったら、家族から反対されましたね。「そんなことで飯が食えるのか?」と。父親は普通のサラリーマンですしね。趣味で謡いをやったりはしていて、僕も発声は少し影響を受けていると思いますが、ロック・バンドに入って、デビューして……と息子から説明されても理解できなかったと思います。僕自身がバンドで食べていくなんて、全く想像もついていませんでしたから。

ザ・フローラルの頃によく聴いていたのは、ブリティッシュ・ロックです。キンクスやスペンサー・デイヴィス・グループ。アメリカだけではなく、ロンドン発の音楽も本当に面白かった時代です。ただし、僕は自分の好みをあまりバンドに持ち込もうとはしませんでした。歌うのが好きだというだけで、こんな曲を歌いたい、こんな風に歌いたいという気持ちがなかったんです。もともとコピーばかりやっていて、ドアーズだったらジム・モリソンみたいな声の出し方をすることしか考えていなかったんです。だからザ・フローラルでシングルのレコーディングでは、本当に困りましたね。作曲家の方が書いた曲とはいえ、オリジナルですから、歌い方のお手本がない。指導してくれる人もいない。当時のレコーディングは2トラックしかなくて、メンバーの演奏をほとんど一発録りで録音した2トラックを別の2トラックに移し替える時に歌入れをするんですが、とにかく苦労しました。全く未知の作業でしたから。

不思議な会社と過剰なファッション

小坂

2万人くらい会員がいたザ・モンキーズのファンクラブを運営していて、余裕があったのだと思いますが、所属していたミュージカラーは良い待遇をしてくれましたね。楽器は海外の一流メーカーのものを揃えてくれて、アンプやPA、サイケデリックな照明も特注。会社から出る給料も当時としては破格の金額の5万円。それと何か新しいことをやっていこうという意欲があって、不思議というか、面白い会社でした。

土屋(幸雄)くんという後にタージ・マハル旅行団のメンバーになる人がいて、彼が面白い実験をいろいろやっていたんです。例えば東京からザ・モンキーズのメンバーのニュースを発信すると、全国各地に何日かかって届くのかを調べていたり。インターネットで一瞬に情報が広がる時代じゃないですから、地域で時間差があったんですよね。それと僕達がイベントに出演すると、応援してくれるファンを動員するんじゃなくて、アンチ・ファンを仕込むんです。それで演奏中に「ヘタクソ!」とヤジを飛ばすと、周りで観ていた人達がみんな僕らのファンになっちゃうというんですよ。発想が面白いでしょう(笑)。

(衣装やロゴ・デザインを手掛けていた)宇野亞喜良さんとは何度かお会いしましたが、人柄はソフトなのに、とにかく実験的なことに挑戦しようとするエネルギーがすごい方だと思いました。ただし、当時の僕が宇野さんのデザインを理解していたかというと……正直、最先端すぎて分からなかった(笑)。ドラキュラとか星の王子様、ピーターパンや孫悟空をイメージした衣装も、やっぱり恥ずかしかったですよ。

もともと僕はファッションには興味がなかったんです。まあ、多少参考にしていたのはビート族ですね。PPMのファッションがビートニクといわれていたんですが、髪も長くはないし、そんなに変わったファッションではないですからね。髭に特徴があるくらいで。ザ・フローラルに入って、給料が良かったこともあって、ちょっと服でも買ってみようかなと思ったんじゃないかな。それで当時渋谷の西武の中2階にできた山本寛斎さんの新しいお店に行くようになったんです。髪はおかっぱ? まあ、おかっぱといえばおかっぱですが、あれは長髪にする途中というか(笑)、当時は男が髪を伸ばすのは大変だったんですよ。エイプリル・フールになった時にはだいぶ髪も伸びて、完全にファッションもヒッピーになりましたね。ものすごく裾が広がったパンタロンとかはいていましたから、ちょっと異様な風体で。六本木スピードに出演した後に柳田ヒロと街を歩いていたら、向こうから来たコワイお兄さんが道をあけてくれたというね(笑)。

ビジネスとしての成功より新しい音楽の世界

小坂

(ザ・フローラルが解散へ向かい始めた時)アイドル的な人気があったメンバーと違って、僕は会社から見放されていると思い込んでいたんです。ああ、このまま僕は路頭に迷うんだなと(笑)。ところが驚くべきことに、ミュージカラーと(ディストリビューション担当の)日本コロムビアが考えていたのは、僕と柳田ヒロ、菊池英二を中心としたロック・バンドの結成で、この3人に新たなメンバーを加えることになった。今振り返ると、会社は新しい音楽の世界をつくろうとしていたんじゃないかな。芸能界とは別の可能性をチョイスしたのだと思います。

僕自身は明確に次の音楽性が描けていたわけではなく、単にもっと音楽をやりたいという気持ちだったと思いますし。有名になりたいとか、芸能界で生きていきたいという気持ちは全くなかったですし、こういう音楽をやれば売れるんじゃないかという、ビジネス的な感覚も持ち合わせていなかった。少しでも周りにビジネスっぽい感じが出てくると僕は居心地が悪くなっちゃう。後にフォージョーハーフを結成した時もそうでした。あの頃は風都市という事務所にいて、フォージョーハーフとはっぴいえんどが所属していたじゃないですか。そこで「こういう音楽をやって、ちゃんと音楽をビジネスにしていこう」という雰囲気になって、ついて行けない気持ちになりましたね。

新しいものをつくるために いつも別の道を選んだ

小坂

僕にはやっぱりビジネスを含めてプロデュースしてくれる存在が必要なんでしょうね。そういった意味では、彼女(高叡華)に心から感謝しているんです。一人でやっていたら、おそらくアーティスト活動を続けてこられなかったと思う。社交的に人間関係を築いていって、音楽を仕事として成り立たせていくなんてことは、僕だけでは無理でした。音楽がリスナーに受け入れられていくためには、やっぱりアーティストの魅力が一番大事だし、ものをつくり出す根本はそこにあると信じてはいますが、それだけでは続けられないのも事実です。とはいえ、アーティストがビジネスのことを考え過ぎちゃうと、創作の輝きが失われていくことも確かなので、その辺りが難しい。結局のところ有能な彼女がいてくれて、僕が苦手なビジネス面を彼女が担ってくれたからこそ、やはり今の僕があるんですよ。

とにかく僕がデビューした60年代後半は面白い時代でした。何か新しいことが生まれそうだという可能性に惹かれて行動していただけですが、結果的に“もし、あの時こうしていれば……”という、“たら・れば”が結構たくさんある人生になってしまった(笑)。もし、あの時、ザ・フローラルというバンドでデビューしていなかったら、どうなっていただろう。エイプリル・フールが解散した後、もし、『ヘアー』のオーディションを受けていなければ、はっぴいえんどのメンバーになっていたかもしれないですし。結局、新しいことを作るためには、それまで持っていた何かを壊さなくちゃいけないんですよ。もちろん、壊すこと自体が目的じゃなくて、新しいものをつくるために僕はいつも別の道を選ぶことになったんでしょうね。

小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ①

ザ・フローラルとヴォーカリストとしての自覚

今年、小坂忠が迎えた「デビュー50周年」の起点は、プロとしての第一歩を踏み出したバンド、ザ・フローラル結成の年、1966年に置かれている。当時、大学生だった小坂は、柳田ヒロ(G、Key)らバンド仲間とともにオーディションを受けて合格、その後、義村康市(Dr)、杉山喜一(B)、菊池英二(G)が加わり、メンバーが揃った。68年には2枚のシングル、「涙は花びら/水平線のバラ」と「さまよう船/愛のメモリー」をリリース。時は66年のザ・ビートルズ来日から始まるグループサウンズ・ブームがピークに達したタイミングであり、曲タイトル、ジャケット写真からも窺えるように、ザ・フローラルもまたGSにカテゴライズされるバンドだった。

GSのバンドの多くがそうだったように、ザ・フローラルもまた、ステージで自身のシングル曲を演奏することは少なかった。演奏曲の中心は洋楽のカヴァー。渋谷・道玄坂のヤマハで輸入盤をジャケ買いして、メンバーが揃って聴きながら選曲していたという。アイディアを出し合う際、小坂は積極的に意見を述べておらず、特にどうしても歌いたい曲はなかったそうだ。むしろ意識は「どんな曲でも歌えるようにしておかなきゃ」という不安のほうに向いていた。

この時代の小坂忠は、まだヴォーカリストとしての自覚が芽生えておらず、自らの音楽性を模索していた段階だったのかもしれない。だからといってザ・フローラル時代の経験が無駄だったかといえば、そうではない。バンドの周辺には60年代後半の文化的な状況を象徴する要素が多く含まれていたことも事実であり、小坂の後々のキャリアに大きな影響を与えている。


ミュージカラーレコードの先進性

ザ・フローラル結成に向けたオーディションを主催し、専属契約を結んだのはミュージカラーレコード(日本ミュージカラー)という会社である。同社の主要事業はピクチャー・レコードの生産だったが、当時、圧倒的なアイドル的人気を誇っていたアメリカのバンド、ザ・モンキーズのファンクラブ日本支部も運営していた。ザ・フローラルはもともと「モンキーズのファンクラブから生まれたバンド」として構想されており、68年10月に日本武道館などで行われたザ・モンキーズの来日公演では共演も果たしている。結果的に、小坂忠はザ・フローラル、そしてその発展型であるエイプリル・フールの一員であったことを通して、「ロックはあくまで欧米が本場」の時代から日本オリジナルのロック・バンドの誕生へと向かう過渡期を経験してきたといえるだろう。

また、ザ・フローラルのヴィジュアル・イメージ全般をプロデュースしていたのが、横尾忠則と並ぶ日本を代表するイラストレーター/グラフィック・デザイナー、宇野亞喜良だったことも特筆すべき点である。宇野はメンバーの衣装デザインを手掛けただけではなく、デビュー・シングルのA面曲「涙は花びら」の作詞もしている(作曲は村井邦彦)。また、ロゴマークなどもデザインし、そのロゴが華々しくペイントされたワーゲンのワンボックスカーが楽器車として用意された。

サイケデリック・ムーブメントを体現するカルチャー・ヒーローだった宇野亞喜良とザ・フローラルの結びつきは、最先端だった。まるでニューヨークにおけるアンディ・ウォーホルヴェルヴェット・アンダーグラウンド(67年デビュー)の関係とシンクロしていたかのように。


1969年のエイプリル・フール

ミュージカラーレコードに、ある種の先進性があったことは確かである。そして、その先進性はメンバー間の分裂状態を招くことになる。ミュージカラーは、結成当時からアイドル路線に反発を感じていた小坂忠、柳田ヒロ、菊池英二の3人を残留させた上で、新たなメンバーを加え、本格的なロック・バンドを結成することを選択。時は1968年末。グループサウンズのブームは陰りが見え始め、ニューロック、アートロックの誕生へと向かっていく転換期だった。

小坂はメンバー探しの渦中で、柳田ヒロの兄であり、立教大学でPEEPというアマチュア・コンサートを主催していた柳田優に誘われ、とあるパーティーに足を運んだ。そこで細野晴臣と松本隆に出会い、セッションになり、小坂は松本の自作詞「暗い日曜日」を細野のギターをバックに歌っている。また、西麻布のバー「マリーズ・ブレイス」で小坂が5万円入り給料袋をかざしながら、細野をバンドに誘ったのも有名なエピソードだ。

こうして前出の3人に細野晴臣(B)、松本隆(Dr/当時、松本零)を加えてエイプリル・フールが結成されることになり、69年4月にはアルバムのレコーディングに入った。同作『THE APRIL FOOL』の荒木経惟によるジャケット写真やアザ−カット(ザ・フローラルから引き続きマネージャーを務めることになった幾代昌子が撮影をコーディネイト)からも伝わってくるように、エイプリル・フール時代の小坂忠は、当時の音楽性を体現するようなヴィジュアルをしている。ヒッピー・ファッションをまとった痩身に長髪、鋭い視線と髭をたくわえた顔立ち―—その歌声のみならず、まさにダークで緊張感溢れる「ロック・バンドのヴォーカリスト」の姿である。しかし、バンドに一員というポジションに小坂忠が長くとどまることはなかった。


日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』

エイプリル・フールの活動期間は、1年にも満たなかった。1969年3月に結成、10月のアルバム・リリースとほぼ同時に解散。レコーディング以外は、ディスコなどでの演奏が中心だった。新宿パニック、六本木スピードのハコバンとして45分のステージを1日4~5回こなし、夏の間だけ営業されるディスコに出演するために1ヶ月間、八丈島に滞在もした。解散の直接的な理由は音楽的な方向性の違いだが、こうした活動に疲れてしまったことも一因だったと後に小坂忠は語っている。とはいえ短くも鮮烈なエイプリル・フールの活動が、日本のロック史に確かな爪痕を残したことも事実である。それは残された音源の先進性もさることながら、ライヴの素晴らしさを聞きつけて、当時まだ高校生だった高橋幸宏や小原礼、鈴木茂などが六本木スピードの客席にいたというエピソードからも伝わってくる。

次のステップは見えていた。ディスコ出演の後、小坂、細野晴臣、松本隆は麻布にあった松本の自宅に集まり、バッファロー・スプリングフィールドなど聴きながらオリジナル作品を中心とした構想を話し合っていたという。記すまでもなく、この流れがはっぴいえんどの結成につながるわけだが、小坂忠だけは別の道を選択する。 反戦メッセージやヒッピー文化をモチーフとし、ブロードウェイに初めてロックを持ち込んだミュージカル『ヘアー』(オフ・ブロードウェイでの初演は67年、ブロードウェイでは68年)をプロデューサー・川添象郎(象多郎)が日本に持ち込み、日本人キャスト中心の公演を計画。小坂忠は開催されたオーディション(69年9月)を受け、「トライブ」(劇中、ヒッピー仲間のことをそう称していた)の一人として出演することになったのだ。オーディションの際、小坂は付き添った細野のギターをバックに「マザーレス・チャイルド」を歌い、バック転を披露した。

『ヘアー』には、寺田稔、深水龍作らの俳優だけではなく、加橋かつみ、クロード芹沢、大野真澄、シー・ユー・チェン、宮下文夫(現・富実夫)などのミュージシャンもキャスティングされ、安藤和津(当時の芸名は荻かづこ)も出演者の一員だった。

69年12月、渋谷東横劇場で東京公演が開催。しかし、大麻不法所持で逮捕者が出る事件が起き、続いて予定されていた大阪公演は中止になる。当時は「途方に暮れた」という小坂忠の選択は間違っていたかかのようにも思えるが、この少し前に小坂の人生において最も重要なパートナーと出会っていることを踏まえると、この「新しいエネルギー」に溢れていた時期は間違いなく重要だったといえるだろう。

小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ②

生涯のプロデューサー、高叡華との出会い

1969年、音楽や演劇、グラフィック・デザインやファッションなどが渾然一体となったシーンの中で、小坂忠と高叡華は出会った。

幼稚舎から大学まで慶應義塾で過ごした高叡華は、同級生だったザ・フィンガースの高橋信之(高橋幸宏の実兄)や成毛滋と親しく、大学では企画サークル「慶應風林火山」に信之とともに所属し、数々のコンサートやイベントを企画・運営していた。イベントでは同じく風林火山のメンバーだった景山民夫とともに構成台本を手掛けることがあり、エイプリル・フールも出演した日消ホールのコンサートでは、OHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)を使ったサイケデリックな照明を担当していた。風林火山の後輩には松本隆がおり、エイプリル・フール以前に松本が結成し、細野晴臣もメンバーに加わったバーンズとも交流があった。

小坂と高の間に共通の友人は多かったが、二人が直接話す機会は少なかった。そんな状態が続いた後、高叡華の卒業パーティーに、小坂忠が足を運んだことをきっかけに、二人は付き合うようになる。

小坂忠が出演したロック・ミュージカル『ヘアー』で、高叡華はアシスタント・プロデューサーを務めていた。公演の中止で「途方に暮れた」のは二人とも同じだったが、心機一転、麻布材木町(現在は六本木ヒルズがあるエリア)に一軒家を借りて、『ヘアー』の出演者や写真家、ミュージシャン(上月ジュン)と共同生活を始めた。現在の若者達も憧れる「シェアハウス」で再スタート―—と書くと華やかな印象があるが、当時の小坂忠はコーラの瓶を集めて1本10円で引き取ってもらい、生活費の足しにする日々を送っていた。一方の高叡華はサンローランの日本ブティック1号店、青山サンローラン・リブゴーシュのスタッフとして働き、小坂が細々とでも音楽活動を続けられるような環境を作った。さらには、71年に川添象郎(象多郎)、村井邦彦、ミッキー・カーチス、内田裕也が設立したマッシュルーム・レーベルから、小坂忠が第1弾アーティストとしてソロ・デビューすることになると同時に、高はディレクターとして参加し、以降は小坂の楽曲で作詞を担当することもあった。

ソロ・デビュー・アルバム『ありがとう』がリリースされた翌月、71年11月6日に渋谷の日本基督教団・聖ヶ丘教会で二人は結婚式を挙げた。新居はアメリカ村と呼ばれた狭山の米軍ハウス。アメリカ村には細野晴臣、麻田浩、和田博巳、洪栄龍、吉田美奈子などアーティスト達が続々と引っ越してきて、この地を拠点に数々の名作が生まれることになる。さらに高の小坂に対するサポートは、二人が76年にトラミュージックを設立してからは、生涯にわたって継続されることになる。小坂忠という存在は、正確に記せば小坂忠個人のことを示すのではなく、「アーティスト・小坂忠+プロデューサー・高叡華」のユニット名だといっていいだろう。


『ありがとう』から『ほうろう』へ

マッシュルーム・レーベルを拠点に、小坂忠はハイペースでアルバムを制作していった。レーベルのプロデューサーであるミッキー・カーチスのもと、細野晴臣との共同作業で完成させた『ありがとう』。新たに結成されたフォージョーハーフ(駒沢裕城、林立夫、後藤次利、松任谷正隆)を起用したライヴ盤『もっともっと』。ストリングス&ホーン・アレンジ、コーラスなどで瀬尾一三のサポートを受けた『はずかしそうに』。青木和義率いる葡萄畑とのライヴ活動を経て、再び細野晴臣を組み、当時のティン・パン・アレー人脈が総動員された『ほうろう』へとリリースは続く。

これらは1971年後半から75年初頭の、わずか約4年間の出来事である。今改めて振り返ると、「日本のジェイムス・テイラー」という異名とともに高い評価を得たデビュー作『ありがとう』から、ティン・パン・アレーの演奏と一体となったグルーヴ感溢れるヴォーカルで名盤との呼び声も高い『ほうろう』まで、マッシュルーム時代の活動は順風満帆だったように思える。 しかし当時、小坂忠が感じていた「自己評価」はそうではなかった。『ありがとう』のレコーディングでは、まだ「自分の歌い方」が分からなかった。『ほうろう』ですら、自分のヴォーカルのスタイルがおぼろげながら見えてきた段階だったという。確かに素晴らしいプレイヤー達をバックに揃えながら、ほぼ1年ごとにメンバーを入れ替えているところにも、その「試行錯誤」感は表われている。名盤『ほうろう』を完成させた後もシンガー・小坂忠は迷い続けるのだった。


パイオニア・スピリッツの結実『モーニング』

小坂忠の活動歴には、日本のロック史にパイオニアとして足跡を残した例がいくつかある。日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』への出演がそうだし、インディペンデントな原盤制作会社を「レーベル」と位置づけ、メジャーな販売網を使って音源をリリースしたマッシュルーム・レーベルへの参加も同様。『ほうろう』のリリース後、75年4月から7月にかけて行われた「ファースト&ラスト・コンサート」もロック・バンドによる全国ツアーとしては画期的なものだった。

出演者だけではなく、音響・照明の機材やスタッフもパッケージにして全国をコンサートで回る、欧米型のコンサート・ツアーを日本で最初に行ったのは誰なのか?については諸説あるが、この「ファースト&ラスト・コンサート」の新しかった点は、小坂忠&ティン・パン・アレーだけではなく、『ほうろう』と同時期に『BAND WAGON』をリリースした鈴木茂とのレコード会社の枠を越えた(当時の鈴木茂のソロ作はキングレコードより発売)ダブルネーム・ツアー(プロモーション上の打ち出しは、小坂忠、細野晴臣、鈴木茂のトリプル・ネーム)だったこと。それまでの歌謡曲的な興行形態とは根本的に違う、全国のコンサート・プロモーターが連携して組まれたツアーだったこと。そして、『ほうろう』のレコーディング・メンバーである細野晴臣(B)、鈴木茂(G)、林立夫(Dr)、浜口茂外也(Per、Flute)、吉田美奈子(Vo)に、佐藤博(Key)、ジョン山崎(Key)が加わった豪華メンバーによる演奏、ダンスも交えたソウル・レヴュー・ショー風のステージ・マナーも残された映像を見る限り充分に画期的だった。

では、小坂忠自身にとって、このツアーはどのような経験だったのだろうか。著書『まだ 夢の続き』(河出書房新社)には「最悪だった。ステージに立つことが嫌でたまらなかった。」と記されている。全国約35カ所の公演は消耗が激しく、メンバーとの人間関係も崩れていく。歌に自信が持てない、音楽を楽しめない。残された輝かしい伝説とはあまりにかけ離れたヘヴィな日々だったようである。ツアー後にマッシュルームを離れ、ショーボートへ移籍して制作された76年の『Chew Kosaka Sings』でも、ハワイでのレコーディング中、同じような精神状態が続き、納得がいくような作品にならなかった。名盤『ほうろう』から一転、再び迷いの時期に入ってしまうのである。パイオニアがゆえの試行錯誤が続くのもまた、若き小坂忠の軌跡の特徴なのだ。

しかし「アーリーイヤーズ」の最終章で小坂忠は見事に復活する。公私にわたるパートナーである高叡華を社長にトラミュージックを設立し、アーティストが自ら作るプライヴェート・スタジオとしてはこれも先進的な試みのトラスタジオも構えた。同スタジオにティン・パン・アレー、坂本龍一、ブレッド&バターなどを招いてレコーディングされた77年の『モーニング』は、シティ・ポップスの先駆けともいえる名盤になった。小坂にとって『モーニング』は、『ほうろう』以上に自分のメッセージを伝えることができ、シンガーとプレイヤーの距離を縮められたアルバムだったのだろう。

このアルバムをリリースした後、小坂忠はクリスチャンとなり、音楽活動はゴスペル・ミュージックに集中していくことになるが、当時は閉鎖的な面もあったクリスチャンの世界で、ロック/ポップスでの経験を活かした新しいゴスペル・ミュージックを創造し、定着させていくのは並大抵のことではなかった。

小坂忠のパイオニア・スピリットは、フィールドが変わっても衰えることを知らなかったはずである。


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