HI-STANDARD
Hi-STANDARD(はい すたんだーど) 難波章浩(なんば あきひろ vo、b)、横山健(よこやま けん g、vo)、恒岡章(つねおか あきら d)の3人によるハードコア・パンクバンド。1991年に結成し、都内を中心に活動を始めました。動員とセールスを着実に伸ばし、99年発表のアルバム『MAKING THE ROAD』はインディーズとしては異例のミリオンセールスを記録。THE OFFSPRINGやGREEN DAYなど海外のビッグアーティストとも共演し、確かな人気を得ますが、2000年の「AIR JAM」出演を最後に活動を休止し、メンバーはそれぞれの活動へと進みます。しかし、11年4月にバンドのリスタートを宣言。同年9月の「AIR JAM 2011」に3万5000人を動員し、活動を再開しました。
元 ちとせ
元ちとせ(はじめちとせ) 1979.1.5、鹿児島県奄美大島生まれ。早くから三線を習い、島唄を歌うようになります。高校3年生の時に、「奄美民謡大賞」の「民謡大賞」を史上最年少で受賞。98年、歌手を目指して上京し、2001年にカヴァー曲を集めたミニアルバム『Hajime Chitose』をインディーズからリリースしています。02年、メジャーデビュー曲となった「ワダツミの木」が大ヒット、続いてリリースしたアルバム『ハイヌミカゼ』,もロングセラーとなり、アーティストとしての評価を獲得。その後、マイペースながらも、ジャンルに捉われないハイクオリティの作品を発表し、ライヴも展開しています。11年には中孝介とのユニットお中元でシングル「春の行人」をリリース。
はちみつぱい
鈴木慶一(すずき けいいち 1951年8月28日、東京都出身)、鈴木博文(すずき ひろふみ 実弟)、藤井盛雄(ふじい もりお)といったメンバーで1970年からあがた森魚らと活動し、71年頃から蜂蜜ぱいと名乗っていました。メンバーは流動的でしたが、72年頃には鈴木慶一(vo、g)、渡辺勝(わたなべ まさるvo、g)、本多信介(ほんだ しんすけ g)、武川雅寛(たけかわ まさひろ g、vi)、和田博美(わだ ひろみ b)、かしぶち哲郎(てつろう d)という編成になり、はっぴいえんどなどとともに、東京のロック・シーンを代表するグループとして活動していました。その後、渡辺に替わって駒沢裕城(こまざわ ひろき psg)、岡田徹(おかだ とおる kb)が参加して74年まで活動。その間、アルバム『センチメンタル通り』(73年)をリリースしています。グループ解散後、メンバーの多くはムーンライダーズに参加しました。
はっぴいえんど
1969年秋、細野晴臣(ほその はるおみ b)、大瀧詠一(おおたき えいいち g)、鈴木茂(すずき しげる g)、松本隆(まつもと たかし d)によって東京で結成されました。70年8月、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。ウエストコースト的なサウンドに、日本語による独自の抒情を込めた詞を乗せたサウンドで異色のグループとして注目されます。70年の春から秋まで岡林信康のバック・バンドをつとめる他、メンバーはURC系フォークシンガーたちのレコーディングにも参加します。71年に名作『風街ろまん』を発表しますが、72年にアメリカ録音の『HAPPYEND』を発表後に解散。メンバーはそれぞれ活動を展開、その後の日本のシーンを牽引する存在となります。
浜田省吾
浜田省吾(はまだ しょうご) 1952.12.29.広島県出身。広島でアマチュア活動を行っていましたが、一時、吉田拓郎がいた広島フォーク村にも在籍していました。大学進学のため上京しますが、73年に広島に戻り愛奴を結成してドラマ―になり、再び上京。75年、愛奴を脱退してソロ活動を開始、76年にシングル「路地裏の少年」、アルバム『生まれたところを遠く離れて』をリリース。しばらく試行錯誤を続けますが、79年にシングル「風を感じて」がヒット。ライヴを中心にした地道な活動が支持されて人気を拡大、83年には福岡の海の中道公園で2万5000人、88年には静岡の浜名湖畔・渚園で5万2000人を集めた野外ライヴを成功させるなど、ライヴアーティストとしての着実な実績をいまも刻み続けています。
早川義夫
早川義夫(はやかわよしお) 1947.12.15.東京都出身。高校の同級生と組んでいたバンドをもとにジャックスを結成してレコード・デビュー。69年にジャックスが解散すると、URCのディレクターとして活動する一方、ソロアルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』をリリースしました。このアルバムに収められていた「サルビアの花」が、女子校生グループ「もとまろ」によってカバーされヒットしましたが、早川義夫は72年に音楽活動を停止し、川崎市に早川書店を開きました。20余年、書店主をしたのち、94年に音楽活動を再開し、アルバム『この世で一番キレイなもの』をリリース。その後、ライヴ活動とレコーディングを中心にした音楽活動を続けています。
ハルメンズ
ハルメンズ(はるめんず) 1979年、佐伯健三(さえきけんぞう vo)、比賀江隆男(ひがえたかお g)らのバンド、少年ホームランズの自主制作レコード「俺はペーペー」を、インディーズバンド、81/2のメンバーだった上野耕路(うえのこうじ kb)、泉水敏郎(せんすいとしろう d)が手伝ったことから、一緒にデモテープを作るようになります。このデモテープがきっかけで、佐伯、比賀江、上野、泉水、石原智広(いしはらともひろ b)のメンバーでデビューが決まり、グループ名をハルメンズと名付けました。80年、ムーンライダーズの鈴木慶一のディレクションでアルバム『ハルメンズの近代体操』を発表、高い評価を受けましたが、上野、泉水が脱退したため、その後はアルバム『ハルメンズの20世紀』をリリースして解散。佐伯はその後パール兄弟を結成しています。
BUCK-TICK
BUCK-TICK(ばくちく) 1984年に結成。インディーズでの活動期に注目を集め、87年にライヴビデオ「バクチク現象 at LIVE INN」でメジャーデビューしました。88年発表のシングル「JUST ONE MORE KISS」がCM曲に起用されヒット、続く3作目のアルバム『TABOO』が初のチャート1位を獲得し、トップアーティストの仲間入りを果たします。さまざまなアーティストとのコラボレーションや夏フェス出演などを経て、2007年には大型野外ライヴイベント「BUCK-TICK FEST 2007 “ON PARADE”」を主催し、約13000人を動員。独自のスタンスで活動を続けながら、2012年に不動のメンバーでデビュー25周年を迎えました。
爆風スランプ
爆風(ばくふう)スランプ 1981年のアマチュアコンテスト「EAST WEST」の参加がきっかけで結成されたバンド。メンバーはサンプラザ中野(さんぷらざ なかの vo)、パッパラー河合(ぱっぱらー かわい g)、江川ホージン(えがわ ほーじん b)、ファンキー末吉(ふぁんきー すえよし d)。84年にシングル「週刊東京『少女A』」とアルバム『よい』でメジャーデビュー。当初は過激なパフォーマンスが話題となりましたが、次第に実力が評価され88年に「Runner」の大ヒットを出しています。これと前後して、ベーシストが江川からバーベQ佐和田(ばーべきゅう さわだ)へと交替しますが、その後も「リゾ・ラバ」「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い」などのヒット曲を生み出しています。99年に活動を休止しましたが、何度かグループとして再始動をしています。
PUFFY
PUFFY(ぱふぃー) 1995年に結成された大貫亜美(おおぬき あみ)と吉村由美(よしむら ゆみ)からなるヴォーカルユニット。96年に奥田民生プロデュースの「アジアの純真」でメジャーデビュー。ファーストシングルながらミリオンヒットとなりました。「これが私の生きる道」「渚にまつわるエトセトラ」「愛のしるし」など、立て続けにヒット曲を生み、99年にはゴールデンディスク大賞を受賞。2002年には北米ツアーを実施し、04年からは2人をモデルにしたアニメ「Hi Hi Puffy AmiYumi」が全米で放送され、国内外のファンを獲得。デビュー16年目を迎えた12年には奥田民生、スピッツ、真心ブラザーズなど豪華なアーティストによるカヴァーアルバム『PUFFY COVERS』がリリースされました。
パール兄弟
パール兄弟(ぱーるきょうだい) 1983年ごろ、ハルメンズのサエキけんぞう(v.)と、窪田晴男(くぼたはるお g.)、中原信男(なかはらのぶお b.)、濱田康史(はまだやすふみ d.)でスタートしたテクノポップユニット。メンバーは、松永俊弥(まつながとしや d)、バカボン鈴木(ばかぼんすずき b)に変わり、1986年、アルバム『未来はパール』でデビューしました。サエキのセンスが光るユニークな歌詞と軽いヴォーカルに、縦横無尽な演奏がからむ新鮮な音づくりで注目を集めました。またパール兄弟のバックダンサーズ「リーマンズ」のプロデュースや、映像作家手塚眞との映像づくりなど、つねに斬新な作品を発表しています。その後、矢代恒彦(やしろつねひこ key)らが加入、元のメンバーが抜けるなどメンバーが変わりますが、2006年からは、デビューメンバーのサエキ、窪田、バカボンを中心にパール兄弟としてライヴ活動を続けています。
ヒックスヴィル
ヒックスヴィル(ひっくすぶぃる) 1994年、ロッテンハッツの解散によって、メンバーだった真城めぐみ(ましろめぐみ vo)、中森泰弘(なかもりやすひろ vo、g)、小暮晋也(こぐれしんや vo、g)が結成。ロッテンハッツの他のメンバーはGreat 3を結成しています。ヒックスヴィルはライヴを中心に活動していきますが、95年にミニアルバム『RIDER』でインディーズデビュー。翌96年にはシングル「バイバイブルース」でメジャーデビューし、この年リリースしたファーストアルバム『トゥデイ』は服部良一音楽祭で優秀アルバム賞を受賞しています。21世紀に入ってからはライヴに重点を置いて精力的に活動を行っています。
平松愛理
平松愛理(ひらまつ えり) 兵庫県生まれ。18歳の頃、古川昌義(ふるかわまさよし g)、森俊之(もりとしゆき kb)、山下政人(やましたまさと g)とERI & WONDERLASTを結成して活動。1987年、村田和人(むらたかずひと)、西司(にしつかさ)、山本圭右(やまもとけいすけ)とのユニット、Honey & B-Boysでアルバム『Back to Frisco』をリリースし、89年にシングル「青春のアルバム」、アルバム『TREASURE』でソロデビュー。92年に「部屋とyシャツと私」が大ヒットしてブレイク。その後もコンスタントに活躍していきますが、95年、阪神淡路大震災に際して、チャリティソング「美し都~がんばろやWe love KOBE~」をリリースしたほか、97年から毎年1月17日に復興支援ライヴ「KOBE MEETING」を続けています。
広瀬香美
広瀬香美(ひろせこおみ) 福岡県出身。早くから音楽教育を受け、国立音楽大学作曲科を卒業。また、渡米してマイケル・ジャクソンのヴォイストレーナー、セス・リックスの薫陶を受けました。1992年、アルバム『Bingo!』でデビュー。同年、シングル「愛があれば大丈夫」のヒットで注目され、93年には「ロマンスの神様」をメガヒットさせるなど大活躍。冬場のヒットが多いことから、冬の女王とも呼ばれました。アーティスト活動と並行して、他のシンガーへの楽曲提供、ドラマや舞台の音楽制作、後進の育成などにも力を注いています。2000年代に入り、オーケストラとの共演やツイッターコンサートなど、さまざまな形でのライヴ表現にもチャレンジしています。
B'z
B’z(びぃず) 松本孝弘 [TAK MATSUMOTO] ギター及び作曲、プロデュースを担当。
稲葉浩志 [KOSHI INABA] ボーカル及び作詞を担当。
1988年9月21日、シングル「だからその手を離して」とアルバム「B’z」の同時発売でデビュー。
様々な音楽性を追求したサウンドでミュージックシーンを席巻していくと同時に、“LIVE-GYM”と称したツアーを敢行。その迫力のライブパフォーマンスとエンターテイメント満載のステージで多くの観客を魅了し、絶大な人気を得る。
デビュー以来、数々のヒット作を出し続け、シングル・アルバム総売り上げ枚数は8,000万枚以上にのぼる。名実ともに国内No.1の実績を誇る彼らは、2007年“Hollywood’s RockWalk”にアジア圏のミュージシャンとして初の殿堂入りを果たし、活躍の場を世界へと広げている。
ビリー・バンバン
東京都国立市出身の菅原孝、進による兄弟フォーク・ユニット。1969年のデビュー曲「白いブランコ」がいきなりヒットを記録。「ミドリーヌ」「れんげ草」「さよならをするために」とヒットが続き、NHK『紅白歌合戦』にも出場。代表的なフォーク・グループとしてコンサートを中心に活動。76年より一時活動を休止。兄・孝は司会など、弟・進はソロやCM音楽などを手掛けて活動。81年12月に「誓います」で復活。以降はマイペースながらも個人の活動と並行してユニット活動を展開。CMソングも多く、特に「いいちこ」のCMソングは幅広い世代で人気を博している。2014年10月、『愛という名の、自由と不自由』をリリース。
ピチカート・ファイヴ
1984年、小西康陽(こにし やすはる、b、kb)を中心に、高浪:慶太郎(たかなみ けいたろう。後に高浪敬太郎と表記、g、kb)、鴨宮 諒(かもみや りょう、kb)、佐々木麻美子(ささき まみこ、vo)によって結成されました。85年、細野晴臣プロデュースの「オードリー・ヘプバーン・コンプレックス」でデビュー。87年、鴨宮 諒、佐々木麻美子が脱退し、田島貴男(たじま たかおvo)が参加。1990年からは田島貴男に替わって野宮真貴(のみや まき、vo)が参加しています。90年代に入ってピチカート・ファイヴは大きく脚光を浴び、海外でも注目されましたが、94年に高浪敬太郎が脱退。その後、2001年に解散するまでは、小西康陽と野宮真貴のデュオグループとして活躍を続けました。
the pillows
the pillows(ざ ぴろうず) 1989年結成、91年にシングル「雨にうたえば」でメジャーデビュー。メンバーの脱退や活動休止などを経験しつつも地道なライヴ活動を続けた結果、根強いファンを得ていきます。2004年に発表したトリビュートアルバムには、Mr.ChildrenやBUMP OF CHICKENなど彼らを支持する豪華アーティストが集結。また、05年にはアメリカ、06年にはアメリカとメキシコでツアーを行い、全会場をソールドアウトさせ、海外での人気も獲得しました。09年には結成20周年を記念した初の日本武道館公演を開催。現在もツアー動員記録を塗り替え続ける、日本のロックシーンに欠かせないアーティストです。
ファニー・カンパニー
ファニー・カンパニー 1971年、桑名正博(くわな まさひろ vo、g)、栄 孝志(さかえ たかし g)、古宇田 優(こうだ まさる kb)、横井 康和(よこい やすかず b)が結成したロックバンド。72年、シングル「スイートホーム大阪」でレコードデビュー。ヒットこそしませんでしたが、大阪弁による本格的ロックナンバーとして注目されました。その後、ベーシストが辻 宗一郎(つじ そういちろう)に替わり、サポートメンバーだった西 哲也(にし てつや d)が正式メンバーになるなどのメンバーチェンジはありましたが、そのパフォーマンスの格好良さは”東のキャロル、西のファニカン”と並び称されるほどでした。しかし、74年に2枚のアルバムを残してあっさり解散してしまいます。
フィッシュマンズ
フィッシュマンズ(ふいっしゅまんず) 1987年、大学の音楽サークルメンバーだった佐藤伸治(さとうしんじ vo、b)、小嶋謙介(こじまけんすけ g)、茂木欣一(もてぎきんいち d)によって結成されました。その後、柏原譲(かしわばらゆずる b)、ハカセ(はかせ kb)が参加し、91年にシングル「ひこうき」でメジャーデビュー。初期は小玉和文、窪田晴男らにプロデュースをゆだねていましたが、その後セルフプロデュースにより、レゲエから発展させた独自の音楽を追求し、根強い支持を得ていきました。しかし、99年、佐藤伸治の死去によりバンドも活動を停止。2005年、RISING SUNROCK FESTIVAL in EZOで、茂木、柏原を中心とする復活ステージが行われ、ゲストヴォーカルとして忌野清志郎、UAらが参加しました。
ザ・フォーク・クルセダーズ
加藤和彦(かとう かずひこ)、北山 修(きたやま おさむ)らによって京都で結成された学生アマチュア・グループでしたが、1967年10月に解散記念LP『ハレンチ』を自主制作。アルバム中で唯一のオリジナル曲「帰ってきたヨッパライ」がラジオの深夜放送を通じて話題となり、急きょシングル・カットして発売され、280万枚という大ヒットとなりました。その結果、メンバーの加藤と北山は解散を延期し、アマチュア仲間だった端田宣彦(はしだ のりひこ)を加えて活動を再開。「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」そして覆面バンドのズートルビー名義の「水虫の唄」などのヒットを飛ばします。ザ・フォーク・クルセダーズは68年10月に解散しましたが、2002年、加藤、北山にフルフィーの坂崎幸之助(さかざき こうのすけ)を加えてザ・フォーク・クルセダーズとしてCDリリースやステージも行うなど、単発的な再結成は何度か行っています。
福山雅治
福山雅治(ふくやままさはる) 1969.2.6生まれ。長崎県出身。中学・高校時代はバンドを結成していました。高校卒業後、地元企業に就職しますが、音楽を捨てられずに上京。オーディションを経て、俳優・歌手として活動をはじめます。90年3月シングル「追憶の雨の中」でレコードデビュー。『ホームワーク』(92年)『ひとつ屋根の下』(93年)などで俳優として人気を得る一方、精力的にシンガー・ソングライターとしての活動をつづけ、「MELODY」「All My Loving」(92年)「IT’S ONLY LOVE」(93年)などのヒットでトップアーティストになります。その後も、「桜坂」(00年)、「東京」(05年)などをコンスタントにヒットさせるとともに、松本英子、前川清、柴崎コウらの楽曲をプロデュースしたり、写真家としても活動するなど、マルチな才能を発揮しています。
フリッパーズ・ギター
小山田圭吾(おやまだ けいご 1969年1月27日、東京出身)が、87年に井上由紀子(いのうえ ゆきこ)らと結成したバンドが母胎。同年末バンドは消滅しましたが、小山田(g)、井上(kb)の二人でロリポップ・ソニックとして活動を続けます。88年春、小沢健二(おざわ けんじ g)、吉田秀作(よしだ しゅうさく b)、荒川康伸(あらかわ やすのぶ d)が参加し、ロリポップ・ソニックは5人編成に。89年、フリッパーズ・ギターと改名して、アルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』でメジヤー・デビューしましたが、その直後に3人のメンバーが脱退し、小山田と小沢健二(1968年4月14日、神奈川県出身)の二人で活動を続けます。コンテンポラリーなギター・ポップ・サウンドとスタイリッシュなセンスでシーンに大きな影響を与えましたが、91年に解散。二人はそれぞれ、コーネリアス(小山田圭吾)、小沢健二として活動を続けました。
ブルース・クリエイション
ブルース・クリエイション 1969年に結成されたブルース・ロックバンド。メンバーは布谷文夫(ぬのや ふみお vo)、竹田和夫(たけだ かずお g)、野地義行(のじ よしゆき b)、田代信一(たしろ しんいち d)。69年にリリースされたファーストアルバム『ブルース・クリエイション』はこのメンバーによるブルースのカヴァーアルバムでした。その後、メンバーチェンジを繰り返し、71年に竹田和夫(vo、g)、大沢博美(おおさわ ひろみ vo)、佐伯正志(さえき まさし b)、樋口晶之(ひぐち まさゆき d)のメンバーで、アルバム『悪魔と11人の子供たち』などをリリースしましたが、この年に解散し、竹田は「クリエイション」を結成します。
THE BLUE HEARTS
THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)。 1985年、甲本ヒロト(こうもと ひろと vo)、真島昌利(ましま まさとし g)、望月正水(もちづき まさみ b)、英 竜介(はなぶさ りゅうすけ d)によって結成されました。86年には望月と英に替って、河口純之助(かわぐち じゅんのすけ b)と梶原哲也(かじわら てつや d)が参加しました。87年にインディーズからシングル「人にやさしく」を発表したのに続き、「リンダリンダ」でメジャーデビュー。ストレートな3ピースのギターサウンドに、シンプルで味わいのある詞を乗せていく彼らの演奏は多くのリスナーを虜にし、バンドシーンをリードする存在となりましたが、95年に解散。
BREAD & BUTTER
神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のフォーク・デュオ。岩沢幸矢(vo)と岩沢二弓(ふゆみ:vo/g)の兄弟からなる。1969年、シングル「傷だらけの軽井沢」でデビュー。以来、70年代ウェストコースト・サウンドに影響を受けた良質なポップ・ミュージックをコンスタントに発表。代表曲は「あの頃のまま」「ホテルパシフィック」「湘南ガール」「ピンクシャドウ」「マリエ」「野生の馬」など。ライヴ活動も精力的に行ない、バンド・スタイルのほかアコースティック・ライヴでも高い評価を得ている。スティーヴィー・ワンダー、井上陽水、松任谷由実ら交流も幅広い。2014年には45周年記念となる4枚組ベスト・アルバムを発表。
BONNIE PINK
BONNIE PINK(ぼにー ぴんく) 1973.4.16.京都府出身。1995年にアルバム『Blue Jam』でメジャービュー。続く『Heaven’s Kitchen』『evil and flower』ではトーレ・ヨハンソンをプロデューサーに招き、話題を呼びます。単身渡米やレーベル設立などを経たのち、2006年リリースのシングル「A Perfect Sky」がチャートトップ10入り。その後発表されたベストアルバム『Every Single Day -Complete BONNIE PINK(1995-2006)-』は70万枚を超えるセールスとなりました。08年にはスウェーデンでのCDデビューも果たし、高い楽曲センスを武器に海外での活動も続けています。
ポルノグラフィティ
ポルノグラフィティ(ぽるのぐらふぃてぃ) 1990年、広島県因島の高校生だった新藤晴一(しんどうはるいち)を中心にバンドが作られ、岡野昭仁(おかのあきひと)も参加していました。高校卒業後、大阪で再会した新藤、岡野らはバンド活動を再開し、大阪のインディーズシーンで注目されていきます。97年、オーディションに合格して上京。99年にシングル「アポロ」でデビュー。この時のメンバーは、新藤(g)、岡野(vo、g)、Tama(たま b)。2000年の「サウダージ」、01年の「アゲハ蝶」などの大ヒットでトップグループとなりました。04年、Tamaが脱退しますが、二人で活動を継続。09年には東京ドームコンサートも行っています。